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2009/09/07

    東京Jazzに行って学んだこと(Jazzと家庭医療の意外な共通点)

東京Jazzに行って学んだこと
東京Jazzという3日間のイベントに行ってきました(日曜の夜だけ)

http://www.tokyo-jazz.com/

情操教育の一環として子どもも連れて行ったのですが,19時開演で4バンドが出演予定.1つめが終わったところで50分+15分休憩...全部終わったら何時?

結局最後のバンドの途中で退出,勿論館山まで戻ったら深夜1時前.
子ども達よ済まん!明日(今日)学校・幼稚園なのに!
どうかjazzのこと嫌いにならないで.

Jazz playerとして,家庭医として色々と思うところがありましたので少し.

Jazzについて

1.現在のjazzは複雑になりすぎている.

芸術の一つである以上originalityを追求することが必要で,特にJazzはこれまでの流れに自分らしさを乗っけて新しい「何か」を生み出すことを要求されるので,ともすれば,「良い物を作るための破壊」ではなく「破壊のための破壊」になってしまっていることがある.
間違いなく自分ではマネなどできっこないレベルだがそれだけ.面白くない.
かなり自慰的なartistもいたように思います.すごいことは分かるが,理解できなくなったら一部の人だけの物になってしまう.
一方で3つめのLou Donaldsonのバンドはすごかった.昔のまま(60年代)の昔のヒットソングで,昔の通りやるんだけれど,観客の反応が最も良かった.観客が一番正直.the less is the more. the simple is the best.
jazzは小さなライブハウスで息づかいの分かるところで聞くのがベストなので,今回のような何千人も入るところではやっぱりダメだな,artistがあんなに遠いもん.そのせいで自分は面白くないんだ,と思っていたら,Lou Donaldsonは観客がみんな入り込んで,感情移入して.ホール全体が一体化.
Duke Ellingtonの言葉が思い出される.「世の中には2種類の音楽しかない.良い音楽と悪い音楽だけだ」

大衆に受けなくなればその芸術はそのまま廃れてしまう.

2.エンターテイメント(娯楽)と芸術

そんなことを考えながらコンサートを聴いていたら,死後まで価値の認められなかった画家ゴッホのことやら,理解されにくいピカソやダリのことを思い浮かべていた.
パリはもちろんのこと,東京の露店でも写実的なもしくは印象派ぽい油絵はそれなりに手軽に手に入る(勿論無名のartistだけれど).基本的な技術が有れば恐らく描ける類の絵.それは芸術と呼べるのか.そこに費やした制作時間(基本的な作業時間とキャンバス,絵の具代)以上の価値はあるのか.一方で現代美術館にあるようなコンテンポラリーアート(恐らくフリージャズや,現代の多くのjazz musicianはこれに相当する)は一見理解できない物も多く,お金を出す気も起きないか,ひょんな事でお偉い批評家に取り上げられて,とてつもない値が付くかのどちらか.
芸術家であること(originalityを追求すること)とエンターテイナーであること(大衆に広く受け入れられること)は両立するのか.
1つめのバンドは芸術的なレベル,技術レベルはとてつもなく高かったが,聴衆と分かり合えたか,聴衆に伝わったかは疑問.いわゆる自分の価値観の押しつけのような.(一方的なパターナリズムの医療の風景を見ているよう)

Lou Donaldsonは往年のテクニックにこそかげりは見えていたが最も聴衆とつながっていた.最も聴衆が喜んだ,満足した.

commodity化の話は以前も書いたので

  芸人と芸術家の違い(goods, service, experience)
これ以上は書かないが.

大衆性(大衆に受けること,幅広く行き渡ること)と希少価値(one and onlyであること)の両立は限りになく不可能に近いのではないかと考えている.
医療をやる上で,自分が家庭医としての技能を磨く上でこれが永遠のテーマのように思える.

家庭医療とのからみ
1.海外の大御所を呼べばそれで何とかなると思っている

確かに今回のチケットも最も大御所の名前の多い回を選んだのは自分なのだが(そのせいで子ども達に迷惑が),某大御所ピアニストはミストーンだらけ,某ギタリストとのコラボは明らかに打ち合わせ不足,しかも2人とも「こなし」「流し」の演奏.
忘れてしまっていた「年取ったかつての大御所の演奏は失望のことが多い」の原則を再認識することになった(勿論例外もあるのだが)
残念ながら,何千人というホールを埋めるには出来るだけ知名度の高い人を目玉に据える必要があるのだが,そういう人が最もコストパフォーマンスが悪い.限界効用逓減の法則ということもあり,有る程度の金額を超えると追加して投入する資源に対してのリターンはだんだん減ってくるが,出した金額に対しての見返りの期待は通常限界効用逓減が起きないので,期待と現実のギャップが大きくなる.図でかけるとよいのだが..

ともあれ,家庭医療に限らず,医学に限らず,海外の物・人が珍重されてしまうが,それはある意味人寄せパンダでしかなくて,ずっと効率よく近場から,質の高い講演や指導医を確保することは出来るはずなのに.
単発の講演やセミナーが気合いやエネルギーを注入する以上でも以下でもないことはもうみんな知っているはずなのに.

食べ物だけではなく,人という資源においても自給率(指導医国内自給率,指導医施設内自給率)といったことやフードマイレージに相当するヒューマンマイレージ(その講師,指導医を読んでくるのにかかるコスト)を考慮した,人的資源の地産地消(千葉県では千産千消といいます)を考えていかなければならないのではないか.

2.家庭医療とjazzの類似性

Clinical Jazzという教育法が家庭医療の世界にあります.臨床という医療行為とjazzとの相似性を良く表していますが,jazz playerとしては,jazzを知らない人がアドリブだコードだという表現を使うのを聞くことには何となく違和感があります.(非常に表面的に感じます)

私はjazzと家庭医療はもっと深いレベルで共通点を持っていると考えています.

jazz legendの一人チャーリーパーカーの言葉

Music is your own experience, your thoughts, your wisdom. If you don't live it, it won't come out of your horn. ~Charlie Parker
音楽はおまえ自身の経験であり,思考であり,知恵なのだ,音楽を生きるという行為なしに,それはおまえの楽器からは出てきやしない.

→人生経験が豊富でなければ,自分の人生と真っ正面に向き合わなければ,その人の医療行為も薄っぺらい物になる.

そして現代のlegend winton marsalisの言葉
jazzをうまくやるにはまず音を出すのではなく,周り・相手のいっていることを良く聴くことだ.それなしにjazzは始まらない.
→補足不要ですね.まず患者さんの話を良く聴きましょう

長くなりましたが,非常にコストパフォーマンスの悪かったコンサートで腹が立ったのでとっても批判的なエントリーになってしまいました.

それでも,大衆に受けなくなればその芸術はそのまま廃れてしまう.

さて振り返って,

家庭医療はきちんと大衆に受けること(患者満足度)とその芸術性(学問としての家庭医療と質の高い医療)の両立を目指しているか.


P.S. 成人はあらゆるところで学ぶのであった.

2009/06/30

    折り返し

6月も最終日です。

目標は常に確認するべきもので、たてたらおしまいではありません。

念頭に立てた目標の再掲

年頭所感(今更)より


1)上達,熟練,学習といったことについて再度 基本に立ち返る(基礎的文献の読み直し)
2)去年からの積み残しのプロジェクトを少しでも進める(執筆,プロジェクト)
3)今年はあいたいと思う人に会う
4)体力づくり
5)丁寧に,丁寧に


あまりSMARTgoalには当てはまっていないのですが。。

BLOGエントリーはこのエントリーを含めて半年で56。昨年は週2のペースで1年で104でしたから、最後にちょっと追い込んだところはありますが、昨年より多めです。(目標や中間到達目標を意識する利点です。6月に入ったら、明らかに6月修了までに52、というのは意識していました)

新型インフルエンザのせいで5月からしばらくばたばたしてしまいましたが、その間に途切れてしまった手帳とPCを平行してのGTD、最近再開しています。

意気込んで始めた5年日記、ゴールデンウィークあたりで途切れていますが、なんとか再開予定です。

PC上のライフハックとしては、Omni Focus+Evernote+journalerで、少し使い分けができてきたところ。せめてこのうちの2つぐらいに集約を。

論文管理はEndnoteのはずだったのですが、某氏の影響でPapersへ。順調。まだ一部evernoteとかにいってしまいますが。

そして、新たなチャレンジとしてwordpress, twitter, facebookにチャレンジ中。wordpressは使いこなすにはかなり時間投資が必要です。。。。(その分見返りはありそう)

下記の10個の基本技の中では、タイマーは新年に買ったはずだけれど、とかinbox zeroは無理でしょうとか。5Sは未だに実践できておらず、とかまだまだなところは多いです。


どこまで実践できている? ライフハックの 10 個の基本技
Sunday, 28 June 2009


新年の抱負がもう脱線した? そんな人はこのロードマップに移ろう

「大きな決心」よりも「毎日の習慣」をゆっくりと変えることで、むしろ少ない労力で大きな変化を作れるということを繰り返し指摘しています。


少しずつでもいいから昨日より今日、今日より明日、と自分の行動を変える。戻ってもまた思い出して、元の道に戻る。そのようなことの積み重ねでしか何も変わらないのだと思います。

人生で一番危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。。。-ミヒャエル・エンデ「モモ」より


永遠にたどり着くことのない目標があるからこそ、人生は輝くのだ、ということを言い訳にして。

2009/02/20

    22 (Twenty-two)

22 (Twenty-two)というと何を思い浮かべるでしょうか.英語ではCatch Twenty-twoという表現があります.とりうるどの選択肢もあまり好ましくない,やりたくないという状況を指します.

由来はこちら.小説のタイトルです

そちらの22ではなく,22の時に最も死亡率が低いとされるBMIです.

何だかんだといいながら,ついにBMI=22を達成しました.瞬間最大風速で,また戻るかもしれませんが...

年明けてから始めた5年日記.何とか続いています.時々まとめて2-3日書きますが.そこで少しはき出すので,blogへのモチベーションが少し下がっているのかもしれません.ネタはいっぱいあるんですけど.

日本のacademic institutionでは今が最も重要な時期.大切な決断や待ったなしの決断が多く,ゆとりはありません.元気ですが..

2008/09/29

    たくさんの方が視察に来られます

家庭医療の実践と教育の場として現在のクリニックがスタートしてから2年半.多くの家庭医療学会認定プログラムが出来,初期研修でも名を知られた病院が,家庭医療プログラムに本格的に取り組み始めています.そんな中,少しだけ先を行く者の利点として,そういったプログラムの準備,立ち上げに関わる人が見学,相談に来られます.

関西のo病院
北方のk会t病院
九州のk病院(i病院関連)

を始め,本当に多くの方が館山という遠いところまで来られ,相談を受けます.

「その成功,失敗,反省,苦労などを聞かせて下さい.」

とのことです.

全部お話ししています.それらを踏まえてよりよいサテライトクリニック,家庭医療研修プログラムを作って頂ければ先に走り出した者の冥利に尽きます.

私たちも追い抜かれないように精進します.

2008/07/31

    近況さまざま

いつも忙しくならないように、現場の人にしわ寄せがいかないように、と気をつけているはずなのだけれど。。。。
これまで、これから

7/24(木) 
金沢大学周生期医療専門医養成プログラムK-CAPPICシンポジウム
 ~米国から学ぶ医学改新~


7/25(金)医学教育学会 今年は諸事情にて発表はせず。一般向け市民講座としてノーベル賞の小柴先生の話を聞きました.1時間のうち30分はいかにお金を確保するかの話で,reseacherは基本的にはproject managerであること,大きな仕事にはやはり先立つものが不可欠であることを再認識しました.
学会では数多くの発表がされていましたが,玉石混合という感じです.先進的なところは先進的。しかしauthenticityの高いアウトカムを出す教育研究の難しいこと。
一方でわざわざスキルスラボで一生懸命トレーニングをして、そのアウトカム評価はペーパーテストという発表も。(どの大学とは言いませんが)これがなぜ変なのかが分かるためには教育のことを理解していなければなりません。それを、「こんな発表があったんですよ。変ですよね。」とふつうに気づけるHANDS修了生。

夜はHANDSの同窓会.修了生が各地でリーダーシップをとって世の中をうごかしつつあります.

7/26(土)は安房地域医療センター開設記念講演会のシンポジウム座長

7/28(月)午前は館山市の養護教員(小,中学校)の皆さん16名がKFCTに見学に来られ,KFCTで行われている家庭医療の話を私から とリハビリの話をOTのKさんからさせて頂きました。.女性の診療などがされていることの周知はまだまだ不十分で,私たちの診療範囲を再度説明,また発達障害や自閉,不登校なども疑いの段階で気軽に相談して下さいというお話しさせて頂きました.

8/2(土)
明日金曜日からアメリカの認定医の更新の試験を受けにハワイへ行ってきます.(前日に入って,当日は8時から5時までテスト,翌日は朝10:30の飛行機です。真夏のハワイなのにとんぼ返り.....)未だ試験勉強が出来ず,どうしようか困っています.落ちたら一年間休職して試験浪人をしようと思っています.
MC-FPではない、旧制度での最終のグループではないでしょうか。(2003年にcertifiedの人たちから始まった。私は2002のcertify)

来週金曜日は佐野潔先生を迎えて第6回家庭医療集中セミナーin館山 があります.翌日土曜から3日間は第20回 医学生・研修医のための家庭医療学夏期セミナーにてWS「全体をみながら診療するということ(個人、家族、地域、環境)」の講師。

2週ほど前をもって南房総で、そして先週をもって千葉県で麻疹がほぼ終息しているので,高校生は感染室で診療というトリアージを8/2までとし,8/4(月)からは通常に戻します.一安心。

2008/06/18

    講演回数とうわさ

年に2回,自分の仕事のupdateを締め切りに追われるように行う(なければやらないので)
一つはHANDS-FDFの履歴書の書き方のセッションで自分のものを例として出すためにそれに合わせて(通常冬),もう一回は所属法人の事業報告のため(今,もう締め切りすぎています)

その下書きとしてここにまとめたのだが,

2006年は30回
2007年は20回
2008年は20回(予定)
という感じで去年から減っている.というより意図的に減らしている.しかも今年は予定も含め学会関係のものが多いのでどちらかというと自分のlife workに関わるものや,後進のためなどそれほど金銭報酬の高いものはない(金銭以外の報酬は十分得られるので構わない).

何でこの話かというと,先日のプライマリケア学会の懇親会場で,現在の組織の別の科のレジデントにいわれたこと

「先生最近ケチになったから,きっとお金を貯めて別の土地に引っ越すんだわ,という噂です」
「沖縄に行きたいと言っているらしいですね」

ケチになったのは上記の通り,講演回数を減らしたのと,しかもその中で純粋に金銭報酬による契約のものの割合が減ったから,また子供にかかるお金が増えてきた,(もう一つはある投資活動の回数も減ったため),等の理由で事由になるお金が減った,というそれだけのことなのだが,
最近は本当に火のないところに思いもよらぬ色の煙が立つ.
沖縄も,引っ越しも興味はあるけれどcommittmentではありません.(注)

それだけ僕の動向が一大関心事,ということなのでしょう.

みんなが周りに左右されず独り立ちになれることを願います.

(注)最近の僕の中でのテーマ.「興味とcommittmentを分ける」家庭医は興味分野が多くて.全部に関わると本当に大事なこと,やりたいことの時間が無くなってしまうのです.

2008/04/16

    コトバの領収書、「庭園」としての人生、マルコビッチの穴

言葉の領収書.
以前のblogから再掲。
http://www.p-db.com/kotoba.html
http://cyblog.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=143
http://blogs.itmedia.co.jp/koji/2005/12/post_10cf.html
で見られます.発案者はプレジデンツ・データ・バンク株式会社の高橋礎(はじめ)社長。
実際に買うことも出来ます.まあ相手に自分のことを印象づけるために始めたようですが,一方で複写式なので自分のところにもいつ誰にあったか,誰からどのような言葉をもらったかの記録が残るので.良い振り返りに成るのではないでしょうか.

そして今回は
私を現在の組織に引っ張ってくれた卒後研修委員長のN先生
3月23日に頂きました

life is a garden,
not a road
we enter and exit
through the same gate
wandering,
where we go matters less
than what we notice
~ Bokonon ~
(The Lost Book)


N先生ありがとうございました。

人生は良く「旅」に例えられます。上記の詩にある、

we enter and exit
through the same gate


と同じように普段住み慣れた生活から出て、またそこに戻ってくるのが旅です。仕事の出張は別にして、自ら行きたいと計画するたびの目的はなんだろうか。
死ぬまでに一度xxxを見てみたい。という目的もあるだろうが、それは、見て何かを感じるからなのだろう。

where we go matters less
than what we notice


どこに行くかではなく、どんなことに気づき、どんなことを感じるかの方が重要。

最近文献を調べ直した限りでは、今の所は死なない人はいない。すべての人は生まれた瞬間から死に向かっている。
人生の終点は「死」なのである。「死」が人生の目的だというつもりはないが、間違いなくすべての人が一度経由する地点である。
そこに至るまでに、何をし、どんなことに気づき、どんなことを感じるか。

そんなことを書いていると、「満足死」の提唱者の疋田善平医師の事が思い出される。

医療ルネサンス 在宅のデザイン 満足死 自分の死 自分でつくる (2007年9月24日 読売新聞)

読書感想文 奥野修司『満足死』講談社現代新書 2007-03-28

取材対象は疋田さんというお医者さんで、二人称三人称ではなくて一人称の死を「満足死」と呼んでいるようでした。で、死の段階を社会・他人に貢献できない「社会死」、自分の身の回りの世話ができなくなる「生活死」、心停止する「生物死」の三段階に分けて、「生活死」と「生物死」の間隔を短くできれば、「満足死」できる可能性が高くなると考えているようでした。


奥野修司「満足死」;講談社現代新書 ”朝吼夕嘆・晴走雨読”2007年04月08日

 本書で疋田医師の説く「社会、生活、生物」の3段階死は考えさせられた。


満足死 September 26, 2007 マタンゴ雑記Ⅱ

疋田先生には個人的に数年前にお会いしたことがあるのだが、(日本プライマリ・ケア学会の指導医ワークショップの参加者としてこられておりました。)80歳を超えているにもかかわらず、いろいろなことに積極的にとり組まれておられ、私の紹介したDale's cone of learningについても後日「出典を教えて欲しい」とわざわざ連絡をしてこられました。そのおかげで私も、Dale's cone of learningについては、一つ新たな学びを得ることが出来ました。ここ。

ここでは、もう一段階踏み込んで考えたい。


人生においての

we enter and exit
through the same gate


the same gate:出入り口はどこか。

人生を「庭園」と考えるならば、その外側にあるのは何か。
仏教的な考えでは「あの世」から「この世」に入って来て、終わりが来たらまた「あの世」へもどっていく。
他の宗教でも「死後」に行く所の設定がなされている。

六道もしくは六道輪廻という考えからすると、この世(人間道)はあくまで永遠に続く輪廻の通過点でしかない。その人間道が「garden」であるとするならばその外側になるのは残りの五つの道ということになる。
肉体はこの世に置いて行くわけなのでその六道をめぐるのは「精神」なのだが、その「精神」が永遠に六道をめぐり続ける中で人間道という「garden」に迷い込んだ時そこで何を見聞し、経験し、感じ、学ぶかという事が、その「精神」の経験値となり、つぎの「道」へ行き更なる修行を積むという風に考えるとしっくり来るのは自分だけだろうか。(そのつみかさねを業(カルマ)というのだが)

精神がこの世にいる間だけ使用する「肉体」という乗り物。それをきちんと手入れしていなければ乗り心地が悪いだろうし、時々ガタが来てレスキュー隊を呼ばないと行けない(受診、通院)ようでは人生という「旅」の体験もまたちがったものになるだろう(それも「旅」の一つ、と考える人も多いだろうが)。あいにく、車とちがって、肉体という乗り物は動けなくなった時に「代車」がないので、また動けるようになるまで整備工場入りか、動けなければそのまま「廃車」ということになる。

こんなことをつらつらと書いていたら急に「マルコビッチの穴」という映画を思い出した。これだから人間の脳は面白い。


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マルコヴィッチの穴 DTSコレクターズエディション
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website stats

2008/04/01

    やっぱりこれで良かったのだ??(かも)

最近読むようになったblog
ライフハックス心理学
医学部にはいると決めたときは脳外科医になろうと思っていた.医学生になって自分の適性やそれぞれの専門の仕事内容の本質がみえてきて,脳外科医になりたいのではなく脳の働きに興味があったのだということ,外科医は基本的に「構造」を扱う仕事であり直接,働き「機能」を扱う仕事ではないということ(機能を最適化するために構造が決まるので,構造を扱うことでもちろん機能を扱っていることになるのだが,一方で構造をかえることなく機能に介入することはできる.分子レベルで構造も変わっているのかもしれないが)などから,紆余曲折を経て家庭医と教育の仕事をしているが,結局人間は脳の働きによって人間たり得るので,しかも家庭としての仕事の多くは本人の行動や認知の変容であり,教育もしかりなので今やっていることは脳の働きを良く理解して効率よく効果的にその働きを良い方へかえる手助けをする仕事が割合として多い.そういう意味で医師になると決めたときから仕事の肩書きは別にして本質的なやりたいことを実現している.(この考え方の根底にあるのがキャリアアンカーという考え方.また別の機会に)

そのブログの最近のエントリー

私たちは雑務好きだ
から,


「脳」と「やる気」の関係において、「答えが見えている」ことに、「脳」は「やる気」を費やしたがります。書き進めてきたプログラムや文章は、自分が書き進めてきたので、これをどうすればより良くなるか、一目瞭然です。一目瞭然だと、「やる気」が沸くのです。
真っ白のエディタに、一文字目から入れていく作業は、多大な精神力が必要です。「脳」は、まだ海のものとも山のものともつかない、見通しの立たない仕事には「やる気」を回そうとしません。真っ白い(真っ黒い)画面を前にして、マンガを読んでいたりしたくなります。(ちなみに「マンガを読む」ことは「見通し」が明らかなので「やる気」が回ってくる)。

こうした時に、私たちはつい、「やる気」が出ない理由を誤解するのです。

そうかわかった!
これまでの構造が悪いから、先へ進めないのだ!

これは100%ウソではないのですが、80%以上は、ウソです。次のように考える方が本当です。私たちは、「創造的な仕事」(は、先が読めない)よりも、「雑用」(は、やり方が明らかに見える)を好むのです。


先日アメリカに行った時に、かの一流の研究者と同じような話をしていて「どうして雑用ばかりにかまけてしまうのか?」という話題になったときのことです。私のつまらない疑問を先生は一言で喝破してのけました。

「それは雑用は答えがわかっているからです!」


そこから更に孫引き
夢を実現するには、「緊急ではないもの」を「緊急」にする

雑用というのは、手間はかかるけれどもやり方はわかっている。それに対して重要なタスクはまだ答えが見えず、不安との戦いを強いられる分だけ、どうしても人間の心理はそれを後回しにしてしまうというわけです。

そうであるなら、

「この重要なタスクをしないと1年後の夢が実現しないよ!」

「この一歩を踏み出さないと人生に後悔するよ!」

こんなよい意味でのプレッシャーを自分に与えることで、安易にクリアできる雑用に傾いた針を、逆の方向に傾けないと、いくら遠大なビジョンがあっても、実現のための一歩も踏み出せないのかもしれません。



自分は何でもギリギリまで先延ばしにして最後のラストスパートで仕事をする人間である.(アドレナリンで仕事をする)
色々な仕事術や,タイムマネジメントの本や雑誌などで決まって書かれているのは,重要だけれど締め切りのないことをこつこつやりましょう.ということ.


でも,自分はなかなかそのやり方に移行できないけれど,今までのやり方でもいいような気がしてきた.

まあ,先のブログは本質的にはそういうことは書いていないのだけれど.

自分の見たいこと,聞きたいことを選択的に認知するのが脳というプロセッサーの特徴でもある.
今まで通り,自分らしく,でも少しずつ進化を.

2008/03/14

    過ぎたるは及ばざるがごとし

どうしても忘れずに書き留めておきたかった言葉

読売新聞3月4日付 編集手帳より

伊達政宗の壁書(家法)より、「仁過ぐれば弱くなる/義過ぐれば固くなる/礼過ぐれば諂(へつらい)となる/智過ぐれば嘘をつく/信過ぐれば損をす」


(引用ここまで)
捕鯨船が動物保護団体に攻撃を受けたことについてこの言葉を引用しての文章

まとめの部分。
だが、おのが「義」を貫くためならば、違法行為を含むあらゆる手段が正当化される——そう信じているとすればテロリストと変わらない◆壁書が教えるように、「仁過ぐれば弱くなる」。彼らもいずれは日本の主張を理解してくれようから、ここは穏便に…と、過剰な「仁」は禁物だろう。
(引用ここまで)


ここまで書きながら、よく似た文章を思い出した。

夏目漱石の「草枕」有名な冒頭部分

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。


この続きを初めて読んだ。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。


(引用ここまで)
人の世は住みにくいけれど、逃げる所もないので、少しでも住みやすくしよう。その仕事をするのは芸術家である。

こんな流れだったとは。やっぱり芸術だよな。

冒頭分の解釈はこちら

岩波全集版の注解を見ると、次のようにあります。

 智・情・意地は知・情・意の三分方に従うもの。『文芸の哲学的基礎』の中で、〔漱石は〕「精神作用を知、情、意の三に区別します」と述べている。順に intellect, feeling, will に当たる。『文学論』では feeling を「情緒」としているが、井上哲次郎他編『哲学字彙』(明治十四年初版)では「感応」をあて、第三版(明治四十五年)になって「感応、感触、感情」とし、「情緒」は emotion の訳語にあてている。

 なるほど、単に漫然と句を並べているのではなく、「知・情・意」の3つを踏まえているのですね。
それはいいんですが、では、この一節をもっと簡単に言えばどういうことなのか、やはり納得がゆかない。
 そこで、この部分を飛ばして先に行く。「情に棹させば流される」の「棹さす」は、よく「流れに逆らう」と誤解されますが、正しくは「棹を水底につきさして舟を進める」で、つまりここは「感情の方面に(感情にまかせて)突き進む」という意味でしょう。次の「意地を通せば窮屈だ」はそのままで説明不要でしょう。
 とすれば、「智に働けば角が立つ」も、続く部分に対応するはずです。さしずめ「理詰めの方向に突き進んでゆくと、他人と摩擦を起こす」ということではないでしょうか。


(引用ここまで。太字、イタリック岡田による。)

本題に戻るが、何事も「中庸」「ええあんばい」「ええかげん」が一番。これが一番難しい。一昨日の診療はちょっと不足気味だった。

「過不足ない診療」

去年ぐらいまでのteachingの際の口癖。最近言わなくなったなあ。

不足していないか、行き過ぎていないか。確認しながらひとつひとつ。

(ぱっと書けたのですが、引用ばっかり)

2008/03/04

    週末のまとめ (3月1日)

久しぶりにまったく仕事のない週末だった(自分で抱えている物は別)
3月1日土曜日には
南総文化ホールにて

千教組安房支部教育フォーラム2008
【開演/終演】14:00/15:40 【入場料】無料
【主催者】安房教育会館(千教組安房支部) 0470-22-0670

に行ってきた。

なんだやっぱり仕事じゃないか,と思う人がいるかもしれない。内容は
ムツゴロウこと畑正憲さんの「命に恋して」というタイトルでの講演会
ネットで調べたら一切みつからない。ちゃんと宣伝すればいいのに。
地元の商店の張り紙で知った。
少し遅れていくと小ホールはいっぱい。子供は程なく飽きてしまいロビーで遊んでいてもらった。
なんと登壇一言目から「命に恋して,という題をもらっていますが,話し出すと止まらなくなるので,皆さんの聞きたいことに少しずつ答えていきたいと思います.質問がないようでしたら,これで帰らせて頂きます.」
場はうけていたが,究極の講演である.結局80分ぐらいで6つぐらいの質問に余談を交えながら答えて講演を終えた.

このパターンは以下の本を読んで以来記憶に残っている.

The Courage to Teach: Exploring the Inner Landscape of a Teacher's Life
The Courage to Teach: Exploring the Inner Landscape of a Teacher's Life
  • 発売元: Jossey-Bass Inc Pub
  • 価格: ¥ 2,707 (10% OFF)
  • 発売日: 1997/11/21
  • 売上ランキング: 106463
  • おすすめ度 5.0


英語なので途中まででそのままになっているが,教師の心構えについては著者のParker Palmerの言葉がもっともしっくりくる.
本の中で優れた教師として評価の高かった人の教育スタイルとして,毎週講義の時間にやってきては開口一番「質問のある人は?」と尋ね,何もなければそのまま講義時間を終える教師の話が出てくる.数回はそれが続くがそのうち学生が焦り始め,教材を必死に読んできて質問をし始める.質問が出たとたん彼のその領域についての知識や洞察が素晴らしいことがすぐににじみ出て,非常に深い学びの講義がその後毎回続いた,という話.

最近Prerequisite(必要条件,前提条件等と訳される)について考えることが多い.もちろんある教育に対しての学習者のPrerequisiteのことだ.Instructional designにおいてはある教育を行うときにその教育が効果的であるためのPrerequisiteを考える必要があるとされる.簡単に言うと足して10を超えるひと桁の足し算が確実にできなければ繰り上がりのある2桁の足し算は学べないということ.readinessと言い換えても良いだろう(ただし,readinessはより心構え的なことを指すことが多い)学べなくはないが,やっぱり足して10を超える一桁同士の足し算を習得するところから始めざるを得ない.大学のコースでも履修条件として「経済学基本編の習得が前提」とか書いてある.
話は戻るがこの「質問がなければ終わります」というのは質問が出るためには何を知りたいかについて参加者が十分に考えていること,何が分かっていて何が分かっていないかについて分かっていること,その分野について何らかの興味や問題意識を持っていることが前提となる.そして,手短に答えられるような形の質問のレベルまで言語化できるほど質問者の意識の中でねられていること,などが前提となる.
つまりそのようなレベルをPrerequisiteとして聴衆に求めている,ということである.

もう一つは,話す側が全く何を話すか準備できず,完全にその場の質問に答える,という意味では究極の「学習者中心」の講演であり,この形式が最も講師の能力を必要とすることは自明であろう.

私も時々自分へのチャレンジとして招待された講演で「今日は質疑応答の時間にします」とすることがある.さすがに質問がなければこれで終わりにして帰りますとは言わないが.

当日ムツゴロウさんに対して出た質問は(覚えているものだけ)
「なぜムツゴロウと呼ばれるようになったか」
「ムツゴロウさんは動物を殺して食べることはどう思いますか」
「苦手な動物はいますか」
「像が殺された仲間の像の牙が隠されているところを探し出すはなしがありますが,それはどうやるのですか」
「県では有害鳥獣といって,鹿やハクビシン,イノシシなどを捕まえて殺すことがありますがそれはどう考えますか」
など
これまでの豊富な経験を元に非常に生き生きとお話しをされた.


学んだこと
全ての生き物は他者の命を犠牲にして生きている.他者の命を犠牲にせず生きることはできない.感謝して,必要なだけ,有り難く頂く.
最近の子どもは魚や鶏を食べるために自分で(もしくは目の前で)殺すという体験がない.そのような体験は必要.(命のありがたみが分からなくなる)
人間に害を与える動物は徹底的に駆逐せよ(ムツゴロウさんの言葉としては意外でした)
ムツゴロウさんの学習スタイルは徹底的に自分で経験して学ぶ(アナコンダに首をわざと絞めてもらったり,ピラニアやワニの池で泳いだり,ライオンに首筋にかみついてもらったり,サソリに刺してもらったり,全部自分から求めていったそうです)

人間は特別な動物ではなく他の動物と同じように食物連鎖の中にあり適者生存のルールによって生きていくのだ(だから生存に必要なことはせざるを得ない)というスタンスで人間をとらえている印象でした.

その人間性と人生経験だけで話しを聴いてもらってお金ももらえるなんて,良い仕事だなあ.