2008/03/14

    過ぎたるは及ばざるがごとし

どうしても忘れずに書き留めておきたかった言葉

読売新聞3月4日付 編集手帳より

伊達政宗の壁書(家法)より、「仁過ぐれば弱くなる/義過ぐれば固くなる/礼過ぐれば諂(へつらい)となる/智過ぐれば嘘をつく/信過ぐれば損をす」


(引用ここまで)
捕鯨船が動物保護団体に攻撃を受けたことについてこの言葉を引用しての文章

まとめの部分。
だが、おのが「義」を貫くためならば、違法行為を含むあらゆる手段が正当化される——そう信じているとすればテロリストと変わらない◆壁書が教えるように、「仁過ぐれば弱くなる」。彼らもいずれは日本の主張を理解してくれようから、ここは穏便に…と、過剰な「仁」は禁物だろう。
(引用ここまで)


ここまで書きながら、よく似た文章を思い出した。

夏目漱石の「草枕」有名な冒頭部分

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。


この続きを初めて読んだ。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。


(引用ここまで)
人の世は住みにくいけれど、逃げる所もないので、少しでも住みやすくしよう。その仕事をするのは芸術家である。

こんな流れだったとは。やっぱり芸術だよな。

冒頭分の解釈はこちら

岩波全集版の注解を見ると、次のようにあります。

 智・情・意地は知・情・意の三分方に従うもの。『文芸の哲学的基礎』の中で、〔漱石は〕「精神作用を知、情、意の三に区別します」と述べている。順に intellect, feeling, will に当たる。『文学論』では feeling を「情緒」としているが、井上哲次郎他編『哲学字彙』(明治十四年初版)では「感応」をあて、第三版(明治四十五年)になって「感応、感触、感情」とし、「情緒」は emotion の訳語にあてている。

 なるほど、単に漫然と句を並べているのではなく、「知・情・意」の3つを踏まえているのですね。
それはいいんですが、では、この一節をもっと簡単に言えばどういうことなのか、やはり納得がゆかない。
 そこで、この部分を飛ばして先に行く。「情に棹させば流される」の「棹さす」は、よく「流れに逆らう」と誤解されますが、正しくは「棹を水底につきさして舟を進める」で、つまりここは「感情の方面に(感情にまかせて)突き進む」という意味でしょう。次の「意地を通せば窮屈だ」はそのままで説明不要でしょう。
 とすれば、「智に働けば角が立つ」も、続く部分に対応するはずです。さしずめ「理詰めの方向に突き進んでゆくと、他人と摩擦を起こす」ということではないでしょうか。


(引用ここまで。太字、イタリック岡田による。)

本題に戻るが、何事も「中庸」「ええあんばい」「ええかげん」が一番。これが一番難しい。一昨日の診療はちょっと不足気味だった。

「過不足ない診療」

去年ぐらいまでのteachingの際の口癖。最近言わなくなったなあ。

不足していないか、行き過ぎていないか。確認しながらひとつひとつ。

(ぱっと書けたのですが、引用ばっかり)

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