4/1のエントリーの内容について。
一昨日のエントリー、個人メールなどで、「意外と本気でしょう」といわれました。そう、意外と本気なのです。
完全に日本のコンセプトだけでカリキュラムの改革は不可能ですが、そういったことをもっと取り込む必要はあると考えています。企画書の背景、コンセプトなどに書いたことは本当です。
里見八犬伝はもちろん(里見八犬伝は多少無理があると思いますが)地元ということ、数年前新年の長編ドラマ企画でタッキーがリバイバルでやっていたこと、(参考は最後に)子供が、八犬伝をテーマにした子供ミュージカルに出演したことなどから、そのストーリーに親しむことが多かったのです。
梶田の「開」「示」「悟」「入」についても何年も前に、WS講師としてご一緒した教育学の方が、教育理論の中で紹介しておられ、「日本初」のものとして、かなり興味を持ち、なんとか取り入れられないか、とずっと考えていたこと。
習・守・破・離については有名な概念ですし、長期的な技能の習得には重要な考え方と思っています。HANDSやその他の教育に関するセッションでは紹介することも多いです。
ぜひ、以下の新聞記事のスクラップ(2枚)をみていただきたいのですが、(一部スキャンしきれていなかったり、見えづらい部分もあるのですが)
この新聞記事
読売新聞 日本の知力 2008年 抜粋
以下抜粋
狂言師野村萬斎のことば「基礎となる『型』は知識ではなく体得するもの。型にはめるのは没個性のように考えがちだが、使いこなすうちに、型は様々な個性や表現となっていく」
葛西康徳氏「相撲ならまず四股を踏むように、勉強でもまず足腰を鍛える過程が必要なのに、いきなり自由演技という例が増えている」
斎藤孝氏 「暗唱していないものは身に付いていない」文章でも計算でもいつでも再現できるようになるのがほんとうの「わかった」ということ。物理をやろうとするものが、ニュートンやアインシュタインを学ばずに創造性を発揮できる訳がない。
自由にやりたいという若者の気持ちもわかるが、その自由自体が、型や反復でしか身に付かない技で維持されている。
自分のやりたいようにやるだけなら、それは単なる自己流で、それ以上は伸びない。型を身につけた人は余裕ができ、複雑な課題も考えずに処理できる。
菊池恭二氏(宮大工) 基本は教えないこと。必要なのは本人が悟ること。体の記憶として自分が身につけること。作業でわからないことがあっても、悩み抜いた末の質問でなければ、答えを深く聞くことはできない。
小川三夫氏(棟梁) 教えないから伸びる かんなの削り方も教えない「こういう削りかすが出るようにやれ」というだけ。頭から入ってはいけない。大学出は体ができていないから疲れる。疲れるから頭で考えようとする。効率のいい方法を探す。しかしそれで早く上達したとしても、10年後、愚直に一段一段上ってきた人間に抜かれる
(中略)
大学生はよそでもやっていける能力がある。そしてこの能力がじゃまになる。外の世界と自分を比べれば逃げ場のある人間は修行に耐えられない。
一方、世間をまだ知らない中学生は、首までどっぷり大工の生活に浸かって、いわれたことを素直に身につけるだけ。下手は下手なりに一生懸命やるだけ。5−6年経って、「こういうやり方もあるのと違うか」という一言で10倍にも100倍にも伸びるときがある。
「教えない」というのは単に教えない訳ではない。学ぼうという雰囲気がある中で放っておくということだ。
(中略)
実は教える側も、教えてしまった方が目先は楽だ。教えないのは忍耐がいる。教えれば30分でできるところが、放っておけば2日も3日もかかる。でも、教えてしまったら、弟子は教えられた範囲のことしかできない。それ以上を目指そうと思わなくなる。
機械もないのに、巨大な東大寺を作った奈良の宮大工には、作ることが可能だという揺るぎない信念があった。その精神力を養うには教えたらあかん。
医師は頭脳労働者でもありますので、最後の棟梁の意見はやや極端な部分もありますが、おおむね、この2つの記事には賛成しており、私の教育観の根本を占めています。
*体、型から入るということ。
最近、考える力、振り返りの能力などが重要視されています。それが重要なことは間違いではないのですが、本来は、体から入り「型で」学ぶこと(いわゆる脊髄反射になるまでやる)と両方をやって、両者が補完して初めて意味のあることになる(Kolbの学習サイクル)はずなのに、振りかえりばっかり、考えること、ゆとりばっかりになっています。
考える必要のないことは、立ち止まらなくていいレベルまで反復練習をする。それで体が自由に動くからこそ、本当に考えなければならないところへ「考える」労力をまわせる。
以前にも書きましたが、一つだけ注意。間違ったやり方で反復練習をするとそれがより強固に定着するので、正しいやり方で。
*「(安易に)教えない」ということ
これは前項と一致しているようで矛盾しています。考えて考えて、悩んで悩み抜くことを前提にしているという意味で矛盾しています。
啐啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。
大学の教養課程の際に哲学の講義の第一回目で先生がこの言葉を説明され、そのときに初めて出会った言葉なのですが、もう20年も前のことなのに、ずっと覚えていて、教育ということを考える上で非常に大切な考え方になっています。
フィードバックに関しても、その前に脳の中で一度検索(retrieval)作業がある方がフィーバックの定着、理解がよいようです。(FREE Research Report on Feedback@ Will at Work Learning)
別の言葉でいうと学ぶ準備(readiness)のこと。
いくらこちらが大切と思っていても、本人にとって本当にそう感じる時が来るまでは、どれだけいってもだめ。(それでもいいますが、だめ元で言っています)
先日も、数人のレジデントを相手の少しまとまった話をしましたが、ぼんやりしている人がいました。
放っておく訳ではないけれど、じっと「その時」を待っているということです。あくまで「鳴くまで待とう」の徳川家康。
矛盾するようですが、ひたすら言われるがままに型を覚えることと、もう一方でひたすら疑問を抱えたまま悩み続けること。この両立が上達の道のようです。
しかし教育を学び始めた頃は、全く価値や位置づけのわからなかった、むしろ毛嫌いすらしていた、徒弟型の教育(背中を見せる、ただ言われた通りにやる)にもそれなりの価値や位置づけがあることに気づき、(それだけではもちろんだめですが)、それらもうまく利用した方がよいと思うようになっています。日本再発見というか。
そうしたら、今回のことで、
TAG HEALTHCARE MANAGEMENT !のTag氏より
「Globalisationが進めば進むほどNationalismが台頭する」というのが、Globalismという考え方に対してSkepticsたちが提唱していることですが、それを実感します。
まさに、正鵠を得たりというコメントをいただきました。
でももしかしたら、「とりあえず言われたままにしばらくやってみればいいのに、そうすれば何かが見えてくるから」という思いの裏には自分の言うことや指導内容に疑問を挟まれると困る、という自身のなさの裏返しなのではないか、などという疑念もわいてきて、教育は「共育(共に育つこと)」であり、育児は「育自(自らを育てる)」ことなのだと再確認の毎日です。
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